趣(おもむき)

この前のライブ配信でも話したことなんだけど、
『プラテーロとわたし』のコンサートの時に、朗読のお客様は朗読の声を追いギターの音が多すぎると言い、ギターのお客様はギターの音を追い朗読に興味がないと言うのが正直な感想だったようです。
この数年で朗読とのコラボを何度かやりましたが、そのすべてで音楽は朗読のバックミュージック的な要素がとても強く朗読とギターがかぶる部分はほとんどないです。朗読会はそれが一般的で、そう言うものを鑑賞するのが朗読のお客様の趣味のようです。
そしてギターのお客様はギターが好きで普段からギターばかり聞いてしまって他の楽器とギターのアンサンブルすら聞かないっていう人もいます。
朗読やギターに限らず、趣味は十人十色だし、趣味なんだからその考え方を変えてほしいなんて言ったって無理な話だと思います。
でも『プラテーロとわたし』は朗読にずっとギター音楽が付いていて両方を合わせるのにある程度のタイミングまで決まっている作品です。そういう作品が生まれる時の流れがあったけど、今の時の流れや文化の流れでは、それぞれが文化交流しづらいっていうことなのでしょうか。
そんな中でも、この作品の趣(おもむき)や僕のアホな演出を受け入れてくれた人がいました。

いつもと違うこと、小さな変化が流れを変えて行くと思います。
言わば演者にとって刺激が強すぎる感想を聞けたのは、誰もやってない作品や公演回数が少ない作品を発表することで、お客様それぞれの頑(かたく)なな趣味を刺激することが出来たっていうことだと思います。

こんなカッチョいいことを書いていますが、僕は本や新聞が嫌いです。読解力はとても低いです。読む速度はとっっっっっっても遅いです。子供の時から読みたくない本や新聞を読まされてうんざりしてます。図書館で借りた本を1週間で返す決まりがあるなら感想文なんて書けません。読めないし書けないしでたくさんしかられてうんざりしたまま51歳になりました。それでどうやって朗読とコラボ出来たかっていうと、朗読を録音してもらったものを聞いて形にしました。これもライブ配信で言ったことだけど僕は声フェチなので声やその音色を注意深く聞こうとするようにできています。それから声フェチと同じように空気感フェチでもあるので、時にはその場の雰囲気で自分を変えます。変えるフリをします。要するに子供が読み聞かせをしてもらって得るものが欠落したまま、子供のような感性のままで大人の知識を得た51歳になりました。しょうがない奴です。しょうがない奴は、趣フェチになって、なったフリをして、自分がいる場面に応じて趣を受け入れて、受け入れてるフリをして、立ち振る舞いをしていきたいと思います。フリをしてるうちに少しずつ変わって行くから。

すべてはつながっている。

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